2024年10月14日 (月)

アーティスト活動再開へ

ココログからお知らせが来て、このBLOGを半年間更新していないので、一年間更新がないと記事の追加が出来なくなるそう。考えてみたら4月から更新していなかった。丁度新しいCDを発売した直後からだ。その間は、農業にいそしんでいたので、音楽活動がほとんど出来ていなかったが、そろそろ復活したい。今は、色々なアーティストの楽曲を聴いたり、また、自分の楽曲を演奏したりしている。Spotifyのプレイリストを作ったりもしているが、Spotifyは使えないという人も中にはいるので、YouTubeでのプレイリスト制作もしようかと思っているところだ。どうやったら聴いてもらえるかは考えなくては。音楽を作るだけでなく届け方も考えなくてはね。

2024年4月12日 (金)

Spotifyの楽曲利用料支払いポリシー変更について

私は色んな音楽配信サービスに楽曲登録していて、毎月再生回数に応じた楽曲利用料を受け取っている。その中でもSpotifyは全世界で多くの人が利用している音楽配信サービスで、現在、私の配信収入の8割はSpotifyからだ。とはいえ、Spotifyの1再生あたりの単価が安いということはずっと言われている。といっても、他の配信サービスとそれほど差があるわけでもない。中には1再生あたりの単価がSpotifyの10倍以上のサービスもあるにはあるけれど。

こういった楽曲利用料については、配信サービスの収益のうちの一定の割合がアーティスト側に分配されるが、1再生あたりの単価というのは、全体の再生回数が分母になっているといっても大きく間違ってはない。つまり、配信サービスの収益が一定ならば、全アーティストの全楽曲の再生数が多いほど1再生あたりの収益が減る。

そうすると、色々問題がある。一つは、超有名アーティストは1曲で何億再生も再生されるから、分母が大きくなりすぎて、1再生あたりの単価が著しく小さくなるということもある。これでは無名アーティストの収入は著しく小さくなるから問題だという人もいるが、同じ土俵でやっているわけだから致し方ないともいえる。

もう一つの問題はとても根が深い問題である。ノイズコンテンツといって、とうてい音楽とは思えないような音を楽曲として登録するヤツがいる。そういうやつの再生も1再生となってしまうと、そういうのだらけになって分母が大きくなるのはどうよ?ってことになる。これはちょっと問題の根が深くて、一応、音楽だけれど、1分くらいの短さで、「あれ?それで終わり?」というようなのとか、「唐突に始まって唐突に終わる」とか、「一応楽器を鳴らしているけど、これ、メチャクチャじゃん」みたいなのも出てきているのも事実。で、別にそんなの登録しても誰も聴きたがらないからいいじゃんか、とはいかない。そういうのでもなんでも登録しておいて、自動再生ツールなどを使って大量再生させて、再生回数を稼ぐわけだ。再生回数×単価となるわけだから、単に再生回数を稼げば、不当に収益を吸い取ることができるわけよ。要は、ノイズでもなんでもテキトーに音を鳴らしといて登録⇒大量再生⇒収益吸い取り、という風にして不当に金を稼ぐ奴がいるのよ。

そういう奴が不当に収益を得てしまうと、マジメに音楽を追求しているアーティストの収益が減る。これは、めちゃくちゃ問題だよね。ちゃんとした音楽を提供しているより、ゴミを登録しといて再生回数を不当に吊り上げて金を巻き上げる方が儲かるとしたら、そもそも音楽配信サービスなんて成り立たない。

なので、今回、Spotifyは色々対策をした。

一つは、明らかに音楽ではないノイズコンテンツと認められるものについては、2分以上なら0.2再生とし、2分未満はゼロとする。

もう一つは、不当に再生回数を吊り上げていることがわかったら、ペナルティーを科すというものだ。

これで、ノイズコンテンツや不当な再生回数稼ぎを排除できるとSpotifyは考えたようだ。

まあ、これは賛成。特に、最近、ノイズコンテンツやら、不当な再生数稼ぎが段々と増えてきて、おかしな世の中になりつつあったので、こういう措置は絶対必要だ。

でもって、さらに勇み足というか、ちゃんとした音楽にちゃんとした収益を配分しよう、という考えが過ぎたのかもしれないが、

「年間再生回数が1000回未満の楽曲については楽曲利用料を払わない」

という措置をとった。

まあ、ちゃんとした音楽なら年間1000回くらいは聴かれるだろう、ということなのかもしれないが、これがハードルが高いと感じる人も多いことは事実だ。俺自身の楽曲を調べたところ、年間再生回数が1000回以上のものは9曲だった。これを多いと考えるか少ないと考えるかは微妙だが、Spotify全体の楽曲のうち年間再生回数が1000回未満のものは6割だそうで、そうすると、全体の4割の楽曲に対してしか楽曲利用料が払われなくなる。まあ、これによって、分母が小さくなるので、ちょっと嬉しい??かなあ?微妙だなあ。

俺みたいに数曲でも年間1000回以上の再生のある曲を持っているアーティストであればよいが、年間1000再生未満の楽曲しか登録していないと、Spotifyからは楽曲利用料が払われなくなる。まあ、年間1000回未満だと楽曲利用料も元々たいしたことないよ。1再生=1円としても年間1000円未満だもん。

さあて、これで私のSpotifyからの楽曲利用料がどう変化するのか、ある意味楽しみでもある。

2024年4月 7日 (日)

CDという一種のグッズ

 2020年にアルバム「軌跡」のCDを出して、それからCDというものは出していない。もともとAmazonのDisk On Demandサービスというのがあって、気軽にCDを販売できていたのだけど、そのサービスが廃止になったので、気軽にはCDを作れなくなった。

 実際に商品としてCDを販売するためには色々と面倒なことがあって、自分一人でやろうとするととても骨が折れる。けれども、以前のCDを買ってくれた人が「新作CDを買いたいのだけど」と言ってくれたこともあったし、在庫に残っていた「軌跡」やそれ以前のCDを売ったこともあったけおd、それには新しい曲は当然はいっていないし。「配信で聴いてください」といっても、常日頃から配信サービスで音楽を聴いているわけではない人にはそもそもハードルが高いようだ。そういうこともあって、骨は折れるけれど、頑張ってCDを完成させた。

 そうすると、意外なことに、いろんな人から「買いたい」とのお話しをいただいた。いろいろ骨が折れたけれど、CDを完成させてよかったなと思う。今のところ特定のお店などでしか売っていないけれど、これから徐々に販売店を増やしていきたいと思っている。

 Cd2024040301 CDというのはジャケットや、CDの円盤そのもののデザインなどもあって、見た目にも美しいものであれば、グッズとしての価値もあると思う。ある人に「CD買っちゃうと、配信で聴かなくなっちゃいますよ」と言われて、ハッとした。配信で聴かれなくなったらそれは困る。けれど、一種のグッズとしてCDが存在するならば、普段は配信で聴いて、CDはグッズとして飾っておき、時々思い出して聴いていただければ、私としてはベスト。それに、今回のCDは過去の作品からお気に入りの曲を選んで収録+数曲の新曲ということで作ったので、「私はこんな音楽を作っていますよ」という名刺代わりにもなると思っている。Cd2024040302

2024年3月27日 (水)

音楽に何を感じるか感じさせるか

いつも思うことだが、音楽といったって単なる音の並びでしかない。まあ、歌詞がついてて歌っているのなら、歌詞という「言葉」があるわけだが、俺みたいにインストゥルメンタルで曲を作っていると、歌詞という言葉すらない。そこに何を感じるか?どうして感じるか?は、解明されていないと思う。

先日書いた、「音楽理論」では「こうするとこんな風に感じる」ということは言える。しかし、それは「こうするとこんな風に感じられる」ということを説明しているだけであって、じゃあ、なんでそうするとそんな風に感じるのか?に明確な答えはない。

でも、曲を作る時には、イメージする風景なり情景をできるだけ音で表そうとするわけで、そうすると、それを感じてくれる人は感じてくれる。たとえば、「雨あがりの朝」。

 

この曲の場合、ずっと続く細かいアルペジオの上になんとなくさわやかなメロディーがかぶっていく。これは、雨で濡れた木々の上の水滴(細かいアルペジオ)、雨上がりの爽やかな空気(さわやかなメロディー)。そして、ピアノソロから弦パートが少しずつ加わって力強さを増していく(雨上がりの朝、だんだん明るくなっていく様子)。旋律はA-B-A’-B'と繰り返しているのだけれど、最後の最後にまったく新しいCがくる。

このCに何を感じるか?これは雨上がりの朝、雲の間から明るい太陽が急に差し込んで、まわりがまぶしく照らされていく、そんな様子を表現したものだ。それを実際にわかってくれていた人がいた。

さて、最新曲のBlue Moon。これに何を感じるか?「恋愛映画」といった人がいた。Breaking codeの上にmelancholicなメロディーを感じ取ってくれた人もいた。作者としては、Blue Moonの下を歩いている男女の会話。そういったものを表現したつもりだったので、少し感じ取ってくれたことが嬉しかった。あなたはどの音にどんな風に感じるだろうか?何を感じさせるか?ということは、なにも音楽理論でいうところのものだけではなく、実際の情景や光景、その音、そういったものをどう抽象化して曲に入れるかということだと思う。何気なく聴いているときに、その要素が何気なく(考えるわけでもなく自然に)うかんで、それがそれぞれの曲に対するイメージを形作るのだろうと思う。

とまた、なんだか難しげなことを書いてしまった。

 

2024年3月 5日 (火)

また難しげなことを言うけど、音楽理論は必要か?

 「音楽理論は必要か?」と、たまに巷でこのような議論になる。そうすると、「そんなものなくても問題ない」派と、「音楽理論はしっかり学ぶべき」派が出てきて混沌としてくる。

 私はどう思うかというと一言でいうならば「あるにこしたことはないが、しばられてはいけない」という結論。これは話すと長くなるのだ。音楽理論から音楽が生まれたわけではなく、まず音楽があって、それを研究する過程で一定の法則があることに気づいて理論が出来た。というのが歴史的順番であることは間違いないし、それを否定する人はいないだろう。何事も実体を研究することによって、明らかになる理論が生まれるが、それが実体のすべてではないということを忘れてはいけない。

 音楽理論は万人に再現性のある理論である。理論に従ってさえいれば、おかしな音楽にはならず、一定のクオリティーになる。そのクオリティーをどこに求めるかで、どこまでの理論が必要になるかが問題になるだけだ。だから初歩的な理論の範囲内でも音楽は作れる。極端な話、音階がちゃんとしていれば、音階がちゃんとしているという範囲内ではちゃんとした音楽になるし、移調するときには調のことを知っていれば、正しく移調出来る。

 音階を「ドレミ...」と知らなくても音楽は出来るし、演奏も出来る。その調が何調だかしらなくても、演奏できるし、何度移調するかわからなくても、移調も出来る。コードも知らなくても、耳馴染みのあるコード進行を適当にやっていれば曲になるし。要は音楽としてちゃん聴こえればよいのであって、耳馴染みのある音を選べばちゃんと曲になる。逆に耳馴染みのある音は理論上もちゃんと説明できる。

 逆に理論に縛られて、知っている理論の範囲から出られない、というのが、本当は困るのだ。たとえば、3コード(トニック、ドミナント、サブドミナント)だけを知ったとしよう。そして、その範囲内でしか曲が作れないのであったら、それはとてもつまらない曲になってしまう。少し簡単にいうとC-F-Gだけのコードで曲を作ったら?その範囲でしか作れなかったら?といいうこと。逆にそれを知らないで、自由に作った方がましな曲になる。理論に縛られて、自由度を失ったら本末転倒だ。

 そうかと思えば、自分がいままでたどり着くことが出来なかった音の使い方についての理論を知れば、ああ、こういう音の使い方もあったのか、という発見が新たな境地を開くこともあるので、理論が先行するのが絶対悪ではない。

 さらには、「理論的に普通こうだよね。こういう音はつかわないよね」ということに反して、意表を突く音を使うことが、斬新な表現となってよりよい音楽になることもあるだろう。理論的には説明のつかないことも時にはある。

 だから「あるにこしたことはないが、しばられてはいけない」と思っている。

 私もかつて色々理論を勉強したし、今も時々新たなことを学んだりしているが、いつも思うことは「しばられるな」ということだ。学んだことは役に立つが、それにしばられては窮屈になるだけだ。実際、ある程度作曲が出来ている人が、初歩的な理論から学び始めるた時に「これにしばられると、今まで積み上げてきたモノを失ってしまう」という感覚に陥ることがあると思う。実際、その人の中では、経験上、学んだ理論のはるか先のモノが出来上がっているので、初歩的な理論の段階まで落としてしまうと、レベルダウンになってしまうのだ。

 理論というと頭で考えがちであるが、音楽は頭で考えるだけでは出来ない。実際の音というものがあって初めて成り立つからだ。音を聴かなければわからず、理論で説明されて何かを感じられるわけではない。

 新しい曲を作る時、大事なのは感覚だ。だが、感覚には限界があり、途中で迷子になったり、わけがわからなくなることもある。その時に、理論が少し頭に入っていると理解に役立つことがある。音楽を「理解」するというのもヘンな話だが、言ってみれば辞書をひくようなものかな?

 

2024年2月27日 (火)

ちょっと小難しげな事を書いてみる

何のために音楽を作っているのだろう。そんなことを時々思うことがある。何かを伝えるため?伝えてどうするの?果たして伝わるの?明確な答えがない。

確かに音楽は何かを伝える手段の一つではある。歌詞がついていれば、歌詞の言葉で伝わるもの、それにプラスして音楽で伝わるもの、というものがあるだろう。私の音楽には歌詞がない。歌詞を付けたことがない。言葉ではない。では何なのか?

一つだけ明確に言えることがある。それは音の連なりであるということだ。人はそのような音の連なりによって何かを想起したり、感情なり感覚を呼び覚ますことが出来る。それは、鳥がさえずりによって、何かを伝えることに似ている。それは言葉でもあるが、言葉ではない。

カッコイイ音楽、という風に表現される音楽がある。曲がなんとなくカッコイイ。オシャレだ。って、なんでそう思うの?明確な答えを出せる人はいるだろうか?カッコイイだけで何も伝わらない、かっこよさげな人が歩いているのを見る、その程度でしかない音楽もある。そこに歌詞を載せて、なんとなくカッコイイ人が喋っている。それだけのことだ。

音楽は必ずなんらかの感情を持っているとは思う。どんな曲であっても。奏でる人がいる。曲を紡ぐ人がいる。そこに何かがあるのかもしれない。人を介して伝わるから。

AIが作曲をする時代になってきたが、AIが作曲したものになんらかの意図はあるだろうか?AIがなんらかの意図をもって、何かを伝えようとしているだろうか?

フリーハンドのように、気持ちのおもむくままに、自由に奏でる曲から、何かを強く感じることもある。でも同じ曲に感じない人もいる。

珍しくフリーハンドで揺れるリズムの中の曲を演奏してみた。私の大好きなMemories of Green。名曲だ。私の作曲ではないが、一度それを演奏してみたいと思った。

2024年1月13日 (土)

世界中の耳に届けるために

曲を作って発表したとき、ある程度の固定ファンを獲得していれば、それなりに聴いてくれる。しかし、ファンというのは正当に評価してくれるかといえば、そうでもないと思う。ファンというのは、どうしても良い評価を与えがちになってしまう。

かといって、放っておいてファン以外の誰かが聴いて評価してくれる、というものでもない。まして、しっかりとした耳を持った人に評価してもらうのは、それなりに働きかけなければならない。しかも、しっかりとした耳を持った人の正当な評価というものは、時に、バッサリと切り捨てるような低評価である場合もある。しかしながら、低評価であったとしても、どこが良くないのか、改善点はどこなのか、といったことを客観的にアドバイスしてくれることも多いものである。そうして、少しずつ指摘された改善点を自分なりに工夫して新しい音楽作りに活かしていくことができれば進歩があるだろう。何事もそうだけれど、最初から完璧に出来るわけではないのだから、そうやって改善していき、進歩していくことが大事だと思っている。進歩していくためには、現在の自分の能力を超えた力を出していかねばならないので、それなりに骨が折れるし、時に心が折れそうになる。

ただ、音楽というのは非常にバラエティーに富んでいるので、まるでジャンル違いの人に聴いてもらってもちゃんと評価されるわけではないから、その点にも注意が必要だ。

ここ数年、色んなキュレーターに自分の曲を提出して、そんなことを色々と考えるに至った。自分の目指す音楽に近いキュレーターやアーティストが少しずつ見えてきたように感じる。キュレーターによっては「あなたの以前のこの曲に比べた時に....」といった、自分の過去の曲と比べて具体的な評価をしてくれる場合もあり、しっかりと自分の楽曲を覚えていてくれたことが嬉しかったりもする。また、多くのキュレーターは自らアーティストであることも多く、キュレーター自身の楽曲を聴いて「ははあ、なるほど、こういう曲を作っているのか」ということが参考になることもある。

こういう風に、同様な音楽を目指している世界中のキュレーターやアーティスト、そして多くの楽曲に接して、刺激を得て、それが次の創作へのモチベーションにもなっている。

年末に、ほぼ即興で一曲作った。即興で弾いたのを少し手直ししただけなので、ほぼ数時間で完成してしまったが、今までの曲とはちょっと違う曲が出来たので、発表してみた。これが良い曲なのかどうか、まったく自信のないままに、出してみたら、意外と高評価であったりもする。もちろん、気になる点、改善点も色々と出てきているが、それは実際作って発表してみなければ気付かないことが多いのだから、それはそれでいいのだ。

音楽は聴いてもらってナンボだ。だから世界中の耳に届けるために、これからも色々やっていこうと思う。

 

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2023年8月 9日 (水)

聴いてくれた人の率直な感想を参考にする

音楽は誰かに聴いてもらって、聴いた人が何かを感じることで成り立つ。自分が作った曲に対して、自分で思っていることと、聴いてくれた人が感じたことは同じではない。自分の自信作を何十人、何百人の人に聴いてもらい、感想を貰うことはとても大事なことだと思っている。特に、プレイリスターなどの音楽キュレーターに聴いてもらうことは大切なことだ。彼らは日常的に沢山の音楽を聴いて、それを自分のプレイリストに取り入れるか、取り入れないか、独自に判断している。そういう中で率直な意見を貰うことも多い。自分では自信作であっても、色んな理由でお気に召してもらえないということはある。メロディー、コード、繰り返し、構造、音色、演奏、色んな要素があるが、「ここが気に入らない」という意見はそれはそれで参考になるものだ。たとえ辛辣な意見を貰うことがあっても、そこには自分では気づかなかった要素が見つかることが多い。世界のキュレーターには、物凄く確かな耳を持っている人が沢山いる。ビックリするほど細かいことに気づいて指摘をされることもある。

そういう指摘を一つ一つ吟味してみることは大切だ。最初は、厳しい意見に落ち込むこともあったが、しばらくするとそこに大きなヒントがあることに気づく。

こういう感じで自分自身をずっと成長させ続けることが大事だ。実際、ここ1年くらいは、そうやって、徐々に打率が上がってきたし、ランキングに少しずつ登場するようにもなってきた。そういう世界中のミュージシャンがひしめき合う中で、他の人の曲も聴いて参考にすることもできる。そうやって、少しずつ世界の中に飛び込んでチャレンジしていくことが自分自身の成長にもつながる。そういう場があることは素晴らしいことだし、それを活用しない手はない。

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2023年7月 9日 (日)

ピアノの音色を追求する

前回も少し書いたけれど、最近の流行りなのかもしれないが、「ピアノはフェルトピアノに限る」という人が少なからずいる。モコモコのソフトタッチで、ペダルなどの機構がギシギシときしむ音がしたりするピアノが一部で流行っているのだ。

ピアノの音はとても複雑だ。タッチの強弱によって音の成分が変わってきて、強いタッチだと高音がとがった音になり、弱いタッチだと全体にソフトな音になる。実際は、楽器そのもののチューニングも色々あって、比較的ソフトな音を出すピアノや、キラキラの音を出すピアノなど、楽器の特性も色々ある。一つの楽器でも音域によって音色が違ってくる。鍵盤それぞれにハンマーや弦などの一つ一つがあるのだから、音も変えようと思えば一音ずつ変わることになる。

だから、曲によって、それらの音色の違いをうまく使えば、同じ音符の並びでも、違った雰囲気にすることができる。さらに、そこに音の反響や周波数特性を変えていけば、その曲に適した音作りが出来る。そういうことを一つ一つやっていくことが大事だと常々思っている。単にフェルトピアノにすればいいってもんじゃないと思う。(やたらフェルトピアノ愛好者を目の敵にするけどね)

今回のこの曲は作っていて途中でボツにしようかと思った。気を取り直して修正を加えて行ったら、だんだんと満足のいくものになってきた。さらに、音の響きを考えて移調して、ピアノの音もかなりチューニングして、ようやく思った通りの音になってきた。

作曲する場合、自分で弾ける曲しか作曲はできない。私自身、そんなに演奏技術が高くないので、シンプルな曲になる。ただ、その中で最大限の表現をしようと思って色々と工夫する。そんな中でピアノの音色はとても大事なものだ。今回の曲はピアノの音色にはかなりこだわった。

2023年6月18日 (日)

自分のスタイルを追求すること

今年に入ってもう半年が経過してしまった。

年初にアルバム「波紋」を出したが、それ以降、なかなか作曲活動が出来ずにいた。次のアルバムをと考えていたが、曲が集まらず、しかたなく、1曲だけシングルで出すことにした。

曲を世に出すということは、多くの人に聴いてもらう必要がある。自分が表現として狙った部分がとても気に入る人もいれば、気に入らない人もいる。それは当然のことだ。

大切なことは、自分の表現したいと思うことを自分で納得できる形で音にすることだろう。その部分のクオリティーは高めなければならない。

この曲も色々な部分で気に入るという人もいれば、気に入らないという人もいた。

気に入らないという人の中で最近とても気になるのは、「フェルトピアノじゃないと嫌だ」という人が結構いるということである。どういう影響かしらないが、特にNeo Classicalの分野で、モコモコのソフトなフェルトピアノでないと認めないという人が結構いるのだ。そういう人に対して、私もフェルトピアノをガンガンやればウケるかもしれないが、それは嫌だ。音によって曲のイメージは変わる。フェルトピアノがその曲を表現するにあたって必然的に必要なものであればよいが、それは何か表現を狭めていないか?と思う。まあ、そういう音楽が好きという人がいるのならば、それはそれで文句のいいようがないけれど。ピアノの音には様々なバリエーションがあって、それをうまく使い分けることで表現の幅が出ると思うのだけどね。実際問題、私自身、いくつかのピアノの音を使い分けているのだけれどね。

いずれにしても、自分のスタイルを追求することが大事なんだろうな。そのスタイルが気に入らない人は、まあそれでいいじゃないか。気に入る人を大切にすればいいわけだし、なにより、自分が求める音に近づけることが大事だろうと思う。

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