2025年1月30日 (木)

旅で見てきたことを音楽にする

人生の節目には熊野古道。そう思って、昨年の11月に熊野古道の旅に出た。いままで何度も歩いた伊勢路。まだ歩いていないコースも色々と歩いてみたが、どうしても、いきたい場所もあってそこは外せなかった。

今回、伊勢路最大の難所といわれる八鬼山越えにチャレンジした。高低差は620m、長さ10kmほどだから、山登りする人からしたらどうってことはないだろうが、登りも下りもかなり急な石畳なので結構難儀する。Yakiyama2024110302その石畳の峠道を抜けると、海岸に出る。三木里海岸だ。Mikisato2024110301

熊野古道伊勢路を歩いていると、峠越えのあとに海岸に出ることが多い。それはどれも山に囲まれた湾で、そこに行くにはかなりの困難が伴う秘境の海岸といった感じである。

伊勢路をさらにいくと、大吹峠を越えた先に大泊の海岸があり、その先に鬼ヶ城という断崖絶壁の海岸がある。

昨年の熊野古道歩きで撮影してきた映像にオリジナルな楽曲をつけて作品を作っていこうと思っている。古道はたいてい山の中の石畳だが、こうして海岸を歩くこともある。

熊野の旅で私が見てきたものを、少しずつ見て欲しいと思う。今回は海岸だ。本州にありながら、行きつくことがなかなか難しい海岸だ。私はこの風景にとても魅かれるのだ。こうして、私が旅で見てきたことをこれを見る人に感じてもらえればと思う。

 

撮影箇所と歩いた熊野古道はここ。

Mikisato0001

Oodomari001

2024年11月27日 (水)

音源設定は「秘伝のたれ」

ずっとストリングスの音を試行錯誤していた。以前長く使っていたストリングス音源の音には気に入らないところが色々あったが、だましだまし使っていた。しかし、どうにもならないので新しいものを導入したのは随分前のこと。ピアノ音源もいくつか使って今のものに落ち着いた。しかし、良い音源さえあれば良い音が出るかというとそういうわけではない。曲調によって演奏がかわるように、曲や使用する場面ごとに設定を変えないとうまくいかない。


デモ演奏を聴いてとても気に入ったので導入した今の音源だが、既存のプリセット設定はなんだか気に入らず、色々と試行錯誤していた。それでも、満足な設定になったことは数少なく、なので、ストリングスを入れることは躊躇していたのが正直なところだ。


今回、どうしてもストリングスを入れたくて、また試行錯誤してみた。直前にとある曲のために設定したものがわりと上手くいっていたのでそれをベースにした。どうしてもうまくいかなくて投げ出したくなったり、適当なところで妥協したくなるのを我慢して、気長にやろうと思った。良い設定をさぐるためだけにまる1日かけた。何度も設定をしなおして聴き直して、気になる部分を改善できるか色々やってみて、なんとか、これならOKと思えるものにたどり着いた。Settings2024112701


こういう設定は保存しておかないと大変なことになる。今回、これを立ち上げたまま席を外して戻ってきたら、何故か設定が狂っていた。これ、使っているマウスに原因がある。マウス不調で今年新しいのを買ったが、マウスを放っておくとクリックしないと戻らない。その時に誤ってへんなところをクリックしたものと思われる。で、演奏してみた「うわ~!なんじゃこりゃ~!さっきの設定はどうなった???」と滅茶苦茶焦ったが、直前に保存しておいたことを思い出し、ロードしてみたら元に戻って安堵した。まる一日の作業が無駄になるところだった。


そうして完成したこの作品。


「始まりの神」というタイトルは熊野古道の始神峠に由来しているが、始神峠の「はじかみ」は、椒(はじかみ)=サンショウウオのことだそうだ。「始神」とはいわゆる当て字だが、今回私が熊野古道を歩くにあたり最初に歩いた道でもあるので、そういう意味も含めて「始まりの神」としてみた。動画の冒頭の最初の動画は正真正銘、今回の熊野古道歩きの一番最初に撮影した動画。カラスが鳴いているが、これは導きの神である「八咫烏」であると私は勝手に思っている。


 

2024年11月24日 (日)

孤独な旅から生まれるもの

 人生の節目には孤独な旅をしてきた。といっても、ずっとそうしてきたわけではない。7年前の紀伊半島への旅が最初だったかもしれない。自分にとってはそれ以降の人生を決めるような決断をした時だった。その時に一人歩いた熊野古道が忘れられず、その後、人生の節目と思う時には熊野古道を孤独に歩く旅をした。そして今回も熊野古道を歩く旅に出かけた。雨が多い地域にもかかわらず、毎回天気に恵まれた。天にも感謝しつつ。

 住んでいる千葉から熊野にいくのは物凄く困難だ。本州で最も行きづらい場所だと思う。いつも車を運転していくが、まず一日で行くことは不可能だ。いつも伊勢に宿泊してお伊勢参りをしてから熊野に向かうパターンだ。伊勢から熊野もかなりの時間がかかる。いくつもの山を越えて行く。まるで地の果てだ。そこに何日も滞在して孤独に山の中の古道を歩く体験は、まるで俗世間を離れてあの世をさまよっている感覚になる。深い深い紀伊山地の奥ふかく、石畳のいにしえの道が続く。Dscn6678

木漏れ日が苔むした石畳を照らす中、行けども行けども道は続く。Kodo2024110302 ほとんど人と出会うこともない。朝、小さな田舎町を出て、山に入り、また小さな田舎の村にたどり着く。Kodo2024110303 鉄道も時刻表をしっかり見ていかないと悲惨なことになる。1本後は2時間後というのが当たり前だ。Kodo2024110401

朝に宿を出て、暗くなる前に帰ってくる。その間、ほとんど人にも出会わないし、民家すらないところを一人さまよう。毎日その繰り返し。完全に俗世間を離れて一日さまよって、また少し俗世間に戻るが、そこは地の果てのような場所。そこで色んなものを見て、孤独にいろんなことを思う。熊野古道をさまよっている時は、古道とまわりの自然と自分自身しかそこに存在しない。まさに自然と自分自身の内面と向き合う時間。毎日が夢の中をさまようような日々でもある。そして感じたことを形にしていく。

 

2024年10月14日 (月)

アーティスト活動再開へ

ココログからお知らせが来て、このBLOGを半年間更新していないので、一年間更新がないと記事の追加が出来なくなるそう。考えてみたら4月から更新していなかった。丁度新しいCDを発売した直後からだ。その間は、農業にいそしんでいたので、音楽活動がほとんど出来ていなかったが、そろそろ復活したい。今は、色々なアーティストの楽曲を聴いたり、また、自分の楽曲を演奏したりしている。Spotifyのプレイリストを作ったりもしているが、Spotifyは使えないという人も中にはいるので、YouTubeでのプレイリスト制作もしようかと思っているところだ。どうやったら聴いてもらえるかは考えなくては。音楽を作るだけでなく届け方も考えなくてはね。

2024年4月12日 (金)

Spotifyの楽曲利用料支払いポリシー変更について

私は色んな音楽配信サービスに楽曲登録していて、毎月再生回数に応じた楽曲利用料を受け取っている。その中でもSpotifyは全世界で多くの人が利用している音楽配信サービスで、現在、私の配信収入の8割はSpotifyからだ。とはいえ、Spotifyの1再生あたりの単価が安いということはずっと言われている。といっても、他の配信サービスとそれほど差があるわけでもない。中には1再生あたりの単価がSpotifyの10倍以上のサービスもあるにはあるけれど。

こういった楽曲利用料については、配信サービスの収益のうちの一定の割合がアーティスト側に分配されるが、1再生あたりの単価というのは、全体の再生回数が分母になっているといっても大きく間違ってはない。つまり、配信サービスの収益が一定ならば、全アーティストの全楽曲の再生数が多いほど1再生あたりの収益が減る。

そうすると、色々問題がある。一つは、超有名アーティストは1曲で何億再生も再生されるから、分母が大きくなりすぎて、1再生あたりの単価が著しく小さくなるということもある。これでは無名アーティストの収入は著しく小さくなるから問題だという人もいるが、同じ土俵でやっているわけだから致し方ないともいえる。

もう一つの問題はとても根が深い問題である。ノイズコンテンツといって、とうてい音楽とは思えないような音を楽曲として登録するヤツがいる。そういうやつの再生も1再生となってしまうと、そういうのだらけになって分母が大きくなるのはどうよ?ってことになる。これはちょっと問題の根が深くて、一応、音楽だけれど、1分くらいの短さで、「あれ?それで終わり?」というようなのとか、「唐突に始まって唐突に終わる」とか、「一応楽器を鳴らしているけど、これ、メチャクチャじゃん」みたいなのも出てきているのも事実。で、別にそんなの登録しても誰も聴きたがらないからいいじゃんか、とはいかない。そういうのでもなんでも登録しておいて、自動再生ツールなどを使って大量再生させて、再生回数を稼ぐわけだ。再生回数×単価となるわけだから、単に再生回数を稼げば、不当に収益を吸い取ることができるわけよ。要は、ノイズでもなんでもテキトーに音を鳴らしといて登録⇒大量再生⇒収益吸い取り、という風にして不当に金を稼ぐ奴がいるのよ。

そういう奴が不当に収益を得てしまうと、マジメに音楽を追求しているアーティストの収益が減る。これは、めちゃくちゃ問題だよね。ちゃんとした音楽を提供しているより、ゴミを登録しといて再生回数を不当に吊り上げて金を巻き上げる方が儲かるとしたら、そもそも音楽配信サービスなんて成り立たない。

なので、今回、Spotifyは色々対策をした。

一つは、明らかに音楽ではないノイズコンテンツと認められるものについては、2分以上なら0.2再生とし、2分未満はゼロとする。

もう一つは、不当に再生回数を吊り上げていることがわかったら、ペナルティーを科すというものだ。

これで、ノイズコンテンツや不当な再生回数稼ぎを排除できるとSpotifyは考えたようだ。

まあ、これは賛成。特に、最近、ノイズコンテンツやら、不当な再生数稼ぎが段々と増えてきて、おかしな世の中になりつつあったので、こういう措置は絶対必要だ。

でもって、さらに勇み足というか、ちゃんとした音楽にちゃんとした収益を配分しよう、という考えが過ぎたのかもしれないが、

「年間再生回数が1000回未満の楽曲については楽曲利用料を払わない」

という措置をとった。

まあ、ちゃんとした音楽なら年間1000回くらいは聴かれるだろう、ということなのかもしれないが、これがハードルが高いと感じる人も多いことは事実だ。俺自身の楽曲を調べたところ、年間再生回数が1000回以上のものは9曲だった。これを多いと考えるか少ないと考えるかは微妙だが、Spotify全体の楽曲のうち年間再生回数が1000回未満のものは6割だそうで、そうすると、全体の4割の楽曲に対してしか楽曲利用料が払われなくなる。まあ、これによって、分母が小さくなるので、ちょっと嬉しい??かなあ?微妙だなあ。

俺みたいに数曲でも年間1000回以上の再生のある曲を持っているアーティストであればよいが、年間1000再生未満の楽曲しか登録していないと、Spotifyからは楽曲利用料が払われなくなる。まあ、年間1000回未満だと楽曲利用料も元々たいしたことないよ。1再生=1円としても年間1000円未満だもん。

さあて、これで私のSpotifyからの楽曲利用料がどう変化するのか、ある意味楽しみでもある。

2024年4月 7日 (日)

CDという一種のグッズ

 2020年にアルバム「軌跡」のCDを出して、それからCDというものは出していない。もともとAmazonのDisk On Demandサービスというのがあって、気軽にCDを販売できていたのだけど、そのサービスが廃止になったので、気軽にはCDを作れなくなった。

 実際に商品としてCDを販売するためには色々と面倒なことがあって、自分一人でやろうとするととても骨が折れる。けれども、以前のCDを買ってくれた人が「新作CDを買いたいのだけど」と言ってくれたこともあったし、在庫に残っていた「軌跡」やそれ以前のCDを売ったこともあったけおd、それには新しい曲は当然はいっていないし。「配信で聴いてください」といっても、常日頃から配信サービスで音楽を聴いているわけではない人にはそもそもハードルが高いようだ。そういうこともあって、骨は折れるけれど、頑張ってCDを完成させた。

 そうすると、意外なことに、いろんな人から「買いたい」とのお話しをいただいた。いろいろ骨が折れたけれど、CDを完成させてよかったなと思う。今のところ特定のお店などでしか売っていないけれど、これから徐々に販売店を増やしていきたいと思っている。

 Cd2024040301 CDというのはジャケットや、CDの円盤そのもののデザインなどもあって、見た目にも美しいものであれば、グッズとしての価値もあると思う。ある人に「CD買っちゃうと、配信で聴かなくなっちゃいますよ」と言われて、ハッとした。配信で聴かれなくなったらそれは困る。けれど、一種のグッズとしてCDが存在するならば、普段は配信で聴いて、CDはグッズとして飾っておき、時々思い出して聴いていただければ、私としてはベスト。それに、今回のCDは過去の作品からお気に入りの曲を選んで収録+数曲の新曲ということで作ったので、「私はこんな音楽を作っていますよ」という名刺代わりにもなると思っている。Cd2024040302

2024年3月27日 (水)

音楽に何を感じるか感じさせるか

いつも思うことだが、音楽といったって単なる音の並びでしかない。まあ、歌詞がついてて歌っているのなら、歌詞という「言葉」があるわけだが、俺みたいにインストゥルメンタルで曲を作っていると、歌詞という言葉すらない。そこに何を感じるか?どうして感じるか?は、解明されていないと思う。

先日書いた、「音楽理論」では「こうするとこんな風に感じる」ということは言える。しかし、それは「こうするとこんな風に感じられる」ということを説明しているだけであって、じゃあ、なんでそうするとそんな風に感じるのか?に明確な答えはない。

でも、曲を作る時には、イメージする風景なり情景をできるだけ音で表そうとするわけで、そうすると、それを感じてくれる人は感じてくれる。たとえば、「雨あがりの朝」。

 

この曲の場合、ずっと続く細かいアルペジオの上になんとなくさわやかなメロディーがかぶっていく。これは、雨で濡れた木々の上の水滴(細かいアルペジオ)、雨上がりの爽やかな空気(さわやかなメロディー)。そして、ピアノソロから弦パートが少しずつ加わって力強さを増していく(雨上がりの朝、だんだん明るくなっていく様子)。旋律はA-B-A’-B'と繰り返しているのだけれど、最後の最後にまったく新しいCがくる。

このCに何を感じるか?これは雨上がりの朝、雲の間から明るい太陽が急に差し込んで、まわりがまぶしく照らされていく、そんな様子を表現したものだ。それを実際にわかってくれていた人がいた。

さて、最新曲のBlue Moon。これに何を感じるか?「恋愛映画」といった人がいた。Breaking codeの上にmelancholicなメロディーを感じ取ってくれた人もいた。作者としては、Blue Moonの下を歩いている男女の会話。そういったものを表現したつもりだったので、少し感じ取ってくれたことが嬉しかった。あなたはどの音にどんな風に感じるだろうか?何を感じさせるか?ということは、なにも音楽理論でいうところのものだけではなく、実際の情景や光景、その音、そういったものをどう抽象化して曲に入れるかということだと思う。何気なく聴いているときに、その要素が何気なく(考えるわけでもなく自然に)うかんで、それがそれぞれの曲に対するイメージを形作るのだろうと思う。

とまた、なんだか難しげなことを書いてしまった。

 

2024年3月 5日 (火)

また難しげなことを言うけど、音楽理論は必要か?

 「音楽理論は必要か?」と、たまに巷でこのような議論になる。そうすると、「そんなものなくても問題ない」派と、「音楽理論はしっかり学ぶべき」派が出てきて混沌としてくる。

 私はどう思うかというと一言でいうならば「あるにこしたことはないが、しばられてはいけない」という結論。これは話すと長くなるのだ。音楽理論から音楽が生まれたわけではなく、まず音楽があって、それを研究する過程で一定の法則があることに気づいて理論が出来た。というのが歴史的順番であることは間違いないし、それを否定する人はいないだろう。何事も実体を研究することによって、明らかになる理論が生まれるが、それが実体のすべてではないということを忘れてはいけない。

 音楽理論は万人に再現性のある理論である。理論に従ってさえいれば、おかしな音楽にはならず、一定のクオリティーになる。そのクオリティーをどこに求めるかで、どこまでの理論が必要になるかが問題になるだけだ。だから初歩的な理論の範囲内でも音楽は作れる。極端な話、音階がちゃんとしていれば、音階がちゃんとしているという範囲内ではちゃんとした音楽になるし、移調するときには調のことを知っていれば、正しく移調出来る。

 音階を「ドレミ...」と知らなくても音楽は出来るし、演奏も出来る。その調が何調だかしらなくても、演奏できるし、何度移調するかわからなくても、移調も出来る。コードも知らなくても、耳馴染みのあるコード進行を適当にやっていれば曲になるし。要は音楽としてちゃん聴こえればよいのであって、耳馴染みのある音を選べばちゃんと曲になる。逆に耳馴染みのある音は理論上もちゃんと説明できる。

 逆に理論に縛られて、知っている理論の範囲から出られない、というのが、本当は困るのだ。たとえば、3コード(トニック、ドミナント、サブドミナント)だけを知ったとしよう。そして、その範囲内でしか曲が作れないのであったら、それはとてもつまらない曲になってしまう。少し簡単にいうとC-F-Gだけのコードで曲を作ったら?その範囲でしか作れなかったら?といいうこと。逆にそれを知らないで、自由に作った方がましな曲になる。理論に縛られて、自由度を失ったら本末転倒だ。

 そうかと思えば、自分がいままでたどり着くことが出来なかった音の使い方についての理論を知れば、ああ、こういう音の使い方もあったのか、という発見が新たな境地を開くこともあるので、理論が先行するのが絶対悪ではない。

 さらには、「理論的に普通こうだよね。こういう音はつかわないよね」ということに反して、意表を突く音を使うことが、斬新な表現となってよりよい音楽になることもあるだろう。理論的には説明のつかないことも時にはある。

 だから「あるにこしたことはないが、しばられてはいけない」と思っている。

 私もかつて色々理論を勉強したし、今も時々新たなことを学んだりしているが、いつも思うことは「しばられるな」ということだ。学んだことは役に立つが、それにしばられては窮屈になるだけだ。実際、ある程度作曲が出来ている人が、初歩的な理論から学び始めるた時に「これにしばられると、今まで積み上げてきたモノを失ってしまう」という感覚に陥ることがあると思う。実際、その人の中では、経験上、学んだ理論のはるか先のモノが出来上がっているので、初歩的な理論の段階まで落としてしまうと、レベルダウンになってしまうのだ。

 理論というと頭で考えがちであるが、音楽は頭で考えるだけでは出来ない。実際の音というものがあって初めて成り立つからだ。音を聴かなければわからず、理論で説明されて何かを感じられるわけではない。

 新しい曲を作る時、大事なのは感覚だ。だが、感覚には限界があり、途中で迷子になったり、わけがわからなくなることもある。その時に、理論が少し頭に入っていると理解に役立つことがある。音楽を「理解」するというのもヘンな話だが、言ってみれば辞書をひくようなものかな?

 

2024年2月27日 (火)

ちょっと小難しげな事を書いてみる

何のために音楽を作っているのだろう。そんなことを時々思うことがある。何かを伝えるため?伝えてどうするの?果たして伝わるの?明確な答えがない。

確かに音楽は何かを伝える手段の一つではある。歌詞がついていれば、歌詞の言葉で伝わるもの、それにプラスして音楽で伝わるもの、というものがあるだろう。私の音楽には歌詞がない。歌詞を付けたことがない。言葉ではない。では何なのか?

一つだけ明確に言えることがある。それは音の連なりであるということだ。人はそのような音の連なりによって何かを想起したり、感情なり感覚を呼び覚ますことが出来る。それは、鳥がさえずりによって、何かを伝えることに似ている。それは言葉でもあるが、言葉ではない。

カッコイイ音楽、という風に表現される音楽がある。曲がなんとなくカッコイイ。オシャレだ。って、なんでそう思うの?明確な答えを出せる人はいるだろうか?カッコイイだけで何も伝わらない、かっこよさげな人が歩いているのを見る、その程度でしかない音楽もある。そこに歌詞を載せて、なんとなくカッコイイ人が喋っている。それだけのことだ。

音楽は必ずなんらかの感情を持っているとは思う。どんな曲であっても。奏でる人がいる。曲を紡ぐ人がいる。そこに何かがあるのかもしれない。人を介して伝わるから。

AIが作曲をする時代になってきたが、AIが作曲したものになんらかの意図はあるだろうか?AIがなんらかの意図をもって、何かを伝えようとしているだろうか?

フリーハンドのように、気持ちのおもむくままに、自由に奏でる曲から、何かを強く感じることもある。でも同じ曲に感じない人もいる。

珍しくフリーハンドで揺れるリズムの中の曲を演奏してみた。私の大好きなMemories of Green。名曲だ。私の作曲ではないが、一度それを演奏してみたいと思った。

2024年1月13日 (土)

世界中の耳に届けるために

曲を作って発表したとき、ある程度の固定ファンを獲得していれば、それなりに聴いてくれる。しかし、ファンというのは正当に評価してくれるかといえば、そうでもないと思う。ファンというのは、どうしても良い評価を与えがちになってしまう。

かといって、放っておいてファン以外の誰かが聴いて評価してくれる、というものでもない。まして、しっかりとした耳を持った人に評価してもらうのは、それなりに働きかけなければならない。しかも、しっかりとした耳を持った人の正当な評価というものは、時に、バッサリと切り捨てるような低評価である場合もある。しかしながら、低評価であったとしても、どこが良くないのか、改善点はどこなのか、といったことを客観的にアドバイスしてくれることも多いものである。そうして、少しずつ指摘された改善点を自分なりに工夫して新しい音楽作りに活かしていくことができれば進歩があるだろう。何事もそうだけれど、最初から完璧に出来るわけではないのだから、そうやって改善していき、進歩していくことが大事だと思っている。進歩していくためには、現在の自分の能力を超えた力を出していかねばならないので、それなりに骨が折れるし、時に心が折れそうになる。

ただ、音楽というのは非常にバラエティーに富んでいるので、まるでジャンル違いの人に聴いてもらってもちゃんと評価されるわけではないから、その点にも注意が必要だ。

ここ数年、色んなキュレーターに自分の曲を提出して、そんなことを色々と考えるに至った。自分の目指す音楽に近いキュレーターやアーティストが少しずつ見えてきたように感じる。キュレーターによっては「あなたの以前のこの曲に比べた時に....」といった、自分の過去の曲と比べて具体的な評価をしてくれる場合もあり、しっかりと自分の楽曲を覚えていてくれたことが嬉しかったりもする。また、多くのキュレーターは自らアーティストであることも多く、キュレーター自身の楽曲を聴いて「ははあ、なるほど、こういう曲を作っているのか」ということが参考になることもある。

こういう風に、同様な音楽を目指している世界中のキュレーターやアーティスト、そして多くの楽曲に接して、刺激を得て、それが次の創作へのモチベーションにもなっている。

年末に、ほぼ即興で一曲作った。即興で弾いたのを少し手直ししただけなので、ほぼ数時間で完成してしまったが、今までの曲とはちょっと違う曲が出来たので、発表してみた。これが良い曲なのかどうか、まったく自信のないままに、出してみたら、意外と高評価であったりもする。もちろん、気になる点、改善点も色々と出てきているが、それは実際作って発表してみなければ気付かないことが多いのだから、それはそれでいいのだ。

音楽は聴いてもらってナンボだ。だから世界中の耳に届けるために、これからも色々やっていこうと思う。

 

https://linkco.re/T7yfvppF?lang=ja

 

 

 

«聴いてくれた人の率直な感想を参考にする